記事とは関係ない四条通りの飾り
古新聞を片づけていたら、ちょっと気になる記事を見つけた。小さなコラムだが、その中に書かれていたことは、書いた人が意図することとは少し違うことを私は感じた。
「箸で刺身(う~ん、お造りとして欲しいところだが)を食べるのはぜいたくか」
こうタイトルされていたこの記事は、介護・福祉系の大学で、リハビリの講義をしたときの学生の反応を書き示したものだ。
脳梗塞後のリハビリでフォークを使って食事ができるようになった。医学的にはそこまでがやっと。しかしその人はお箸で食事ができるようになりたいと望んでいた。理由は、「フォークで刺身を食べても美味しくないんや。刺身はやっぱり、箸で食べんと(記載の通り)」また、さらに「茶漬けをスプーンで食べても食べた気がせん。茶漬けは、箸でさらさらとかき込むもんや」と。
その講師はゆえに医学的な判断だけで中止せず、希望を考慮することが必要で、自分の感覚ではなく、相手の感覚を尊重するように説明した。しかし一部の学生が、「箸で食べてもフォークで食べても、刺身は刺身では」と言った。少数意見だったので安堵したが、これからはそんな若者が増えてくるだろう。そういう若者が増えてくれば、刺身を箸で食べたいと思うのはぜいたくと言われるかも知れない。そう締めくくってあった。できないことをできるようになりたいと願うということがぜいたくだと思ったのか。
正面から撮って、お年賀に使いたいお飾り
寂しいと思わないか。
この講師はリハビリをしてレベルアップすることが贅沢な望みとしたのだろうか。それはそれでいいだろう。私はフォークでもお箸でもいいと思う若者に幻滅した。もしも私がこの患者のように言われたら、絶対に噛みついているだろう。きっと頭から怒鳴りつけるくらいの勢いになるかも知れない。
この学生は、きっと食生活も心も貧しい生活なのだろう。お店でお総菜を買ってきてもパックのままで食べるとか、普段からインスタント食品などが多いのではないだろうか。この学生は使い捨てのフォークで食べさせられても文句もいわないだろう。それどころか、極端な話、おかゆに刻んだ副食を混ぜて食べさせられても、何も感じないかも知れない。なんて貧しい心だろう。
私は贅沢なのではなく、心の豊かさの問題だと思う。人が人として、大事にしてきた食文化をけなされた発言だと思う。確かに食べてしまえば同じだろう。だが日本人がお造りをフォークで食べるなんて、いくら後遺症とはいえ、とても辛いことだ。お椀を持ち、綺麗なお箸の持ち方をして食べる。当たり前のことなのに、それができないのが我慢ならないその気持ち、とてもよく分かる。
京都の食文化には「しつらえ」という言葉がある。お客さまをおもてなしするのに、お部屋の設定、器の選定、床の間に飾る掛け軸やお花・・・ なんでもないお食事をするだけでも美味しく食べられるようにしつらえるのだ。安いお茶でも、いい器でいただくととても美味しく感じる。雰囲気も大切な要素。ただ食べたらいいと言うものではない。
落とすと割れるからと、高齢者や子供にプラスティックの食器を使う。その気持ちは分かるが、私には我慢できない。せいぜい歯磨き用のコップだ。樹脂のお茶碗で食べたくない。プラスティックのお箸はまだ我慢できる。でも滑り止めのざらついたお箸は我慢できない。舌触りが悪くて、食事が美味しくない。滑りやすくてもやはり塗り箸がいい。
それを言う私は、贅沢な我が儘なのだろうか。
鳥が羽を広げているように見える
毎日料亭のようにして食べたいとは言わない。しかしフォークで食べるお造りとお箸で食べるお造りの味が何故違うか、その学生は学ぶべきだろう。
今後海外からの看護職や介護職も増えて行かざるを得ない状況に陥りつつある。文化の違いは大きくコミュニケーションの溝を深めていくだろう。トラブルを起こすことは間違いない。決められた手順だけで仕事はできるだろう。そう、このフォークの学生のように。しかしそこには相手を人として看る尊厳はない。
私はそんな医療職の人間が増えていくことに憤りを感じる。
願わくば、介護を受ける身にならないことを、来年の初詣にお願いしよう。
今日のおまけはこれ。清水寺に行ったときの八坂神社。今年の初詣はどこに行こうか。